日本古来の行事や文化、伝統、風物など 日常の中にそこはかとなく感じる「和の心」を |
QRコードから簡単アクセス対応機種をお持ちの方は バードコードを読み取るだけで簡単にアクセスできます
|
|
---------------------------------------------------------------------- ◇◆◇[大相撲No.3]◇◆◇ 「大相撲」はスポーツ・・・ でも「相撲」は、スポーツだけではない・・・ですよね〜 ---------------------------------------------------------------------- 「大相撲」が少しずつ形を変え、生き残ってきた戦国時代。 「相撲」が生き続けた背景にいったい何があったのでしょうか・・・ 今回は、観戦したくなった〜「大相撲」を No.3をお届けします。 安土桃山時代に始まった「 勧進相撲 」や「上覧相撲」。 「勧進相撲」は、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて、各地の寺社で「勧 進相撲興行」として盛んに行われていました。しかし、この「勧進相撲」は、寺 社の造営・修繕など、「勧進」本来の趣旨に副って、寺社が主導で行われており、 定期的な興行を打つ組織のようなものではありませんでした。具体的には、勧進 を行う寺社が職業相撲集団を雇い入れ勧進方とし、近くの相撲人を集めて寄方(よ りかた)として興行を行っていたようです。 そして、戦国時代末期から盛んになっていった戦国大名による相撲人の召し抱え。 織田信長、豊臣秀吉、豊臣秀次は特に多くの相撲人を召し抱えていたことは No.2 でご紹介しましたね。 その後江戸時代になり幕藩制度が成立すると、各地の藩主たちは競って有力な相 撲取(=相撲人)を召し抱えるようになります。その集団は、「相撲組」「相撲衆」 と呼ばれていました。他にも、加賀前田家や紀州徳川家、越前松平家などといっ た大名は、相撲取を多く召し抱えており、彼らお抱えの相撲取同士の対抗戦もお こなわれたとのこと、現在の「大相撲」に近くなってきましたね。 幕府や各地の藩主によって掛けられた「相撲取」。そのような状況で、「職業相撲 による傷害事件がたびたび起こる」という理由から、幕府は、一時期武家屋敷の 外での相撲を禁止する方針をとったのです。「 辻相撲(盛り場の見世物) 」は治安 の悪化をもたらしていたようです。 西暦 1648年2月には、武士抱えでない勧進相撲を禁止する触書、さらに同年5月 には辻相撲の禁令も発せられました。また、西暦 1661年にも「町中」での勧進相 撲の開催が禁止。そのため、職業相撲人たる相撲取は、ほとんど諸藩の召し抱え となったのです。そして、藩抱えの相撲取による対抗相撲が盛んとなり、どの藩 でも、勝利によって藩の評判を高めるため、相撲取たちに一層の稽古と精進を要 求。相撲技術の著しい発展が起こりました。相撲を取る場所としての「土俵」も このころにはじめて発明されたのです。それまでは、相撲場には境界がありませ んでした。土俵の成立によって、格闘技としての相撲に、相手を土俵の外に出せ ば良いというルールが次第に加わるようになり、「大相撲」に大きな変化が起こっ たのでした。 さて、時代は、元禄時代( 18世紀)。幕府は方針を転換し、「勧進相撲」の一律禁 止から、条件付きで興行を許可こととしました。 西暦 1699年には、京の岡崎天王社修復のための七日間の勧進相撲が行われ、大坂 でも西暦 1691年に町中で「勧進相撲」が行われたそうです。江戸は、西暦1684 年に深川八幡宮で晴天八日の勧進相撲興行が行われたとか。京・大坂・江戸の三 都での「勧進相撲」が復活したのです。 また、その時の江戸「勧進相撲」では、雷権太夫(いかづちごんだゆう)以下 15 人が株仲間を結成して寺社奉行に興行の許可を得たことが、後の相撲年寄の原型 となったのです。この、興行主体が寺社奉行に相撲興行の許可を申請し、その許 可をもって行われた興行を、一般に公許勧進相撲といいます。 18世紀も中頃になると、申請にはほとんど許可がおりるようになり、江戸・大坂・ 京の三都において勧進相撲興行がほぼ定期的に開催されるようになったのです。 そして、興行の主体が寺社や町人の興行師から、相撲取出身の頭取(年寄)に変 わり、番付も前の興行の成績を元に作られるようになり、江戸・大坂・京の三都 で、春は江戸、夏は京、秋は江戸と大坂で、年に4回それぞれ晴天十日の相撲興 行が定期的に行われ、「四季勧進相撲」と呼ばれる 三都勧進大相撲が成立したの でした。 こうして、今の「大相撲」の原型が整いつつあった江戸時代・・・しかし、その 流れは「明治維新」という日本にとって大きな変化に飲み込まれようとしていた のです。 江戸時代の終焉を迎え、明治維新そして続く文明開化によって、欧米流の近代国 家の建設が急務となった明治政府。 華やかな西洋文化の急速な流入は、社会に「脱 亜入欧」の機運をもたらし、旧来の日本の伝統的な文化や慣習が文明開化を阻害 する前近代的な旧弊として、軒並み否定される風潮にありました。その一例、「断 髪令」は、「相撲」にとっての危機でした。 幸い、 新政府内には相撲に対する理解者が比較的多かったため、明治4年に実施 された「断髪令」の相撲社会への適用は免れたのですが、依然として、「相撲」に 対する攻撃は相当厳しいものがあったようです。 そこで考えたのが、社会に貢献すること。世論を和らげるべく、様々な奉仕活動 を展開したのです。維新直後の明治2年3月には、明治天皇の転都の大儀(御東 遷)に際して、京都力士が錦旗を捧持(ほうじ)して品川まで同行し、東京力士 がこれを迎え、同年7月には、九段招魂社(現在の靖国神社)の火の鎮座祭に際 して、相撲を奉納。明治5年には神殿の造営にあたって力士を工事に従事させて います。また、明治9年には、東京相撲会所によって幕下・三段目の力士の中か ら「力士消防別手組」が組織され、それから二年間にわたって東京市内の消防活 動に従事したといいます。 そんな活動が功を奏したのでしょうか・・・ 明治天皇は、しばしば「天覧相撲」にお出かけになっていらっしゃったのですが、 明治 17年3月10日、明治天皇による4回目の天覧相撲が評判となり、相撲人気 は回復に向かったのでした。 やがて、明治時代も後期になると、急速な近代化・西洋化の反動としてのナショ ナリズムの復興が起こり、日本社会には「国粋」的な風潮が蔓延し始めます。日 清・日露戦争の開戦とその勝利もナショナリズムの復興を促進。明治天皇の天覧 相撲を契機として人気を取り戻しつつあった相撲は、さらなる人気回復をとげ、 興行的にもようやく安定していきました。 明治時代も終わりの頃、「空前の大相撲人気」の中、屋根つきの常設相撲場の建設 が必要とされ、明治 42年5月東京両国元町の本所回向院境内に「国技館」と名付 けられた常設相撲場が落成したのです。 「国技館」と名付けられたのですから、ようやく「大相撲」が「日本の国技」と して認められたのでは・・・と思ったのですが、実は、相撲が日本の「国技」で あるから、国技館という名前をもった相撲場が建てられたのではなく、国技館の 建設後、相撲を「国技」とする言説が登場したそうです。 不思議なものですね〜何が運命を変えるかわからない・・・ 戦争もそのひとつです。ナショナリズムに乗って、「大相撲」は「日本精神の神髄」 とまでいわれ、「国民的スポーツ」として親しまれるようになったのですから。 昭和 20年6月。3月には東京大空襲があり、国技館も被災したにもかかわらず、 いや、そんな時だからこそだったかもしれません。国技館において、ほとんど観 客のいない非公開の夏場所が 7日間開かれていたのです。伝統文化を守る・・・ そんな思いが込められていたのでしょう。 今こうして「大相撲」が観戦できるのも、長い長い歴史の中、時代に揺れ動きな がら、守ってきた人々のおかげです。まだまだ全盛期とまではいきませんが、「大 相撲」がこれからも栄えていくよう、応援し続けていきたいですね。 日本人力士が横綱になれるように・・・ ◇◆◇ [大相撲]といえば何を思い出しますか ◇◆◇ 「大相撲」といえば、今回で 3回目。意外とあるものですね、思い出も(^^) 思い出すのは、小学校の体育。確か、 5年生か6年生の頃だったと思います。体育 の授業で「相撲」がありました。砂場で「相撲」をとった覚えがあります。その 頃は、男女の体の変化が現れている頃。なんで、男女で「相撲」をとらなければ いけないのか・・・かなり女の子には不満でした。 それでも身長・体重ともに、まだ女の子のほうが上。一番大きかった男の子も吹 き飛ばされていましたっけ。後にも先にも、「相撲」をとったのはその授業のとき だけ。「相撲」は、やはり見ている方がいいですね〜
|
|
|
|
|
|
|
|
|
Copyright(c)2004-7 着物専門店「丸や呉服店」
All Right Reserved
|
|