日本古来の行事や文化、伝統、風物など 日常の中にそこはかとなく感じる「和の心」を |
QRコードから簡単アクセス対応機種をお持ちの方は バードコードを読み取るだけで簡単にアクセスできます
|
|
---------------------------------------------------------------------- ◇◆◇[大相撲No.2]◇◆◇ 日本の国技となっている「大相撲」 この始まりは・・・神事から、でもそう長くは続かないものですね ---------------------------------------------------------------------- 「大相撲」の歴史はとても古く、日本に根付いてきた伝統。 そんな国技にも苦難の時代があったのです・・・ 今回は、日本の国技を忘れないで〜「大相撲」を No.2をお届けします。 古墳時代( 3世紀後半〜7世紀半ば)から始まった「大相撲」。格闘技一般という 意味を持った「すもう」は、朝廷の権力のもと保護されてきましたね。 でも、そんな守られた時代はず〜っと続いていくものではなかったのです。 七夕の頃に開催されていた「相撲節会」、天皇が宮中で「相撲」を観戦する儀式の ことでしたね。全国から集められた力士が 7月7日に戦う・・・盛大な行事でし た。力士たちは、「相撲節会」が開催された後にも京に残り、貴族の私邸で開かれ る相撲に招かれたり、京周辺の寺社の祭礼に奉納される相撲を勤めたりしていま した。 「相撲節会」が開催される目的には2つありました。 1つは、全国よりその諸国の強い者が集められることによって、天皇を中心とし た朝廷の権力を誇示したいため。 そしてもう1つは、集められた力士の中から選りすぐって国家に仕えさせる人材 を集めたこと。 しかし、諸国にとってはたまりません。 7月7日(旧暦、新暦では8月の上旬か ら中旬)は、農作業にとってとても大切な時期。そんな時期に 1ヶ月も2ヶ月も 大事な若者がいなくなっては作業も進みません。また、七夕は、豊穣を祈る国家 的「年占」の神事であり、親王・高官と全国の強者がこぞって天皇に奉仕して服 属を表現する、国家支配体制を再確認する重要かつ神聖な儀式。 やがて、「相撲節会」は開催も 7月下旬、そして行事の性格も天皇以下朝廷の面々 に供される全国武芸大会へと、変わっていったのです。そして諸国にも変化が生 まれます。各国の力士がある特定の家から世襲制をとるようになり、「相撲の家」 と呼ばれる家からの力士が集まるようになっていきます。家柄が固定され、「相撲 人」という専門化が生まれたのです。 しかし、時は平安時代末期。ご存じのとおり平治の乱・・・などなど政情不安と なり、朝廷の権力も衰え始めます。そして、相撲人を諸国から徴発することが難 しくなり、源平の戦いを堺に平安時代の終わりとともに途絶えていったのでした。 時代は変わり鎌倉時代。 中世となり、「武士の時代」が始まりです。そして「相撲」 も新しい時代を迎えることになるのです。 平安時代末期の相撲節の廃絶後、相撲節相撲人は主に二つの道をたどっています。 一つは武士として幕府に仕えるという道。そしてもうひとつが、寺社などと結び つき、相撲の職能を生かして専門的相撲人になる道です。 平安時代も末期に出現した、「相撲の家」として相撲人を多く輩出した家。その家々 が、相撲節の廃絶に伴い、「相撲人」として生きるために、鎌倉幕府に御家人とし て従うなど、完全な武士として、武家の社会に適合していったのです。もともと 平安時代末期、相撲節で活躍した相撲人たちは、そのほとんどが地方武士の出身 でしたから、膂力にすぐれた彼らは、「武勇」の人として、まだ戦乱がおさまらな い時代には活躍しただろうと考えられています。 そして、かつて行われていた上覧相撲もまた権力者の前で数々繰り広げられてい たようです。 鎌倉幕府、初代将軍の源頼朝は、相撲を好んだらしく、「吾妻鏡」には、頼朝が鶴 岡八幡宮や熱田神社などの神社の祭礼に奉納される相撲を観戦したことや、武士 たちに相撲を取らせてそれを見物したという記録が残されています。また、室町 時代になっても、上覧相撲はしばしば行われてたとのこと。 その後、中世も末期になると、織田信長、豊臣秀吉、豊臣秀次と、当時の最高権 力者たちによって、たびたび上覧相撲が催されました。安土桃山時代には「相撲」 が、純粋に権力者の鑑賞の対象としての「芸能」的な要素が強かったようです。 実際に相撲を取るのはほとんどが専門的な相撲人。「相撲」は「取るもの」ではな く、「観るもの」となっていったのです。 特に信長が大変な相撲好きで、上覧相撲を度々催していたといいます。そのため に京都近辺と畿内から相撲人を召し集めていたというのですから、「大相撲」好き は相当のものだったようです。この、相撲人を召し抱えるという行為は、信長の みではなく、豊臣秀吉、その甥の秀次、功名が辻でも登場した土佐の長曽我部元 親(ちょうそかべもとちか)、など有力な大名も行っていたといいます。 中世も末期は、相撲人たにとって完全に相撲を生業とする職業相撲集団になって いった時代だったのです。 そしてもう一つの道、 寺社などと結びつき、相撲の職能を生かして専門的相撲人 になる道。「相撲人」たちは、平安時代に「相撲節」の開催後も京に残り、京周辺 の寺社の祭礼に奉納される相撲を取っていたことはすでに述べましたね。その彼 らが鎌倉時代にたどっていった道は、その専門性を生かして半ば専門的な相撲人 の集団を形成し、京周辺の神社に祭礼ごとに雇われて、祭礼の際に奉納される相 撲をとる道だったのです。 この専門的相撲人たちは、「京相撲」または「京都相撲」と呼ばれ、西暦 1192年 には、鎌倉の鶴岡八幡宮の放生会(ほうじょうえ)の際に、「京より下向」してき た「相撲十人」が相撲をつとめたことが「鶴岡社務記録」に残されています。鎌 倉時代初期にはすでに専門的相撲集団が成立していたことが伺えますね。 そして中世も後期になると、このような奉納相撲とともに、勧進相撲が行われる ように・・・、寺社や橋梁などの建立・修復のための資金を調達するために、芸 能を供して人々の見物料を集めるものとして役目を担っていったのです。 勧進とは、公共性の高い寺社や橋梁などの建立や改修のための費用を集めるため に、勧進聖(ひじり)と呼ばれる僧が勧進帳と呼ばれる勧進の趣旨を書いた巻物 を携えて諸国をまわり、人々の自発的な喜捨を集めること。義経・弁慶で有名な 歌舞伎十八番「勧進帳」ですね〜 中世は、「相撲」の生き残りをかけた時代。今日の「大相撲」の形が確立した時代 でもありました。時代の変革に揉まれながら、しっかり地盤を固めていった「相 撲」・・・日本の伝統と言われる「大相撲」の底力は、長い歴史によって育てられ たものだったのですね。 次回は江戸時代・・・さてどんな「相撲」が見られますか、お楽しみに! ◇◆◇ [大相撲]といえば何を思い出しますか ◇◆◇ 「大相撲」といえば、大田区にも昨年相撲部屋が初めてできました。「尾上部屋」 です。私の住んでいる池上の商店街には「尾上部屋歓迎」のポスターがいっぱい! 私も出来た当初はどこかしら〜と見物しに出掛けました・・・ 前々から、蒲田にはなぜか力士が多く、よく見かけていたのですが、 把瑠都(バ ルト)を見たときには、「いや〜たくましい」とみとれてしまいました。 1月場所は、4日目から休場・・・残念ですが、大田区から横綱登場を夢見て、応 援していこうと思っています!みなさんも応援してくださいね! それにしても朝青龍は強いですね〜
|
|
|
|
|
|
|
|
|
Copyright(c)2004-7 着物専門店「丸や呉服店」
All Right Reserved
|
|