日本古来の行事や文化、伝統、風物など 日常の中にそこはかとなく感じる「和の心」を |
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---------------------------------------------------------------------- ◇◆◇[古田織部(ふるたおりべ)]◇◆◇ 「武士」・・・それとも「茶人」・・・ 「織部焼」でも有名? さて、「古田織部」とは、どんな人物? ---------------------------------------------------------------------- 「古田織部」という人物をご存じですか? 「織部焼」なら聞いたことはあるけれど・・・という方もいらっしゃるのでは? 今回は、斬新な世界を切り開いた、「古田織部」をお届けします。 「古田織部」は、西暦 1544年、美濃国山口(現在の岐阜県本巣町山口)に城主・ 古田重安の弟、重定の長男として生まれました。(後に主家に養子入りします)幼 名は佐介、後に重然(しげてる:諱の読みは「しげなり」とも)と改めています。 茶人でもあった父の薫陶(くんとう: (香をたいて薫りを染み込ませ、土をこねて 形を整えながら陶器を作り上げる意から)徳の力で人を感化し、教育すること) を受け、武将としての生涯を歩みつつ、茶人としての強い指向性を持って成長し ていきます。 西暦 1567年、織田信長の美濃進駐とともにその家臣として仕え、翌年の信長上洛 に従軍し、摂津攻略に参加。信長の側近として仕えるようになります。その頃、 信長のもとで「茶頭」であった千利休と出会います。「茶かしら」とは、将軍の茶 の指南役のこと。その役目は、単に茶を教えるということではなく、政治のブレ ーン(頭脳)としての役割、精神世界をリードする役割を持っていました。 その時代、武士として生まれた人は、文武両道に秀でていることが求められてい たのです。武道とともに和歌・書画・漢詩などの文芸の修養も努めたとか。人の 上に立つ物は、文化にも明るくなければいけなかった時代。その中で信長は文化 の道に茶道も取り入れたのでした。 しかし、西暦 1582年、本能寺の変で信長が自害すると、「古田織部」は秀吉の明 智光秀打ち(山崎の合戦)に参加。のちに秀吉の家臣となり、西暦 1585年、秀吉 が関白職に就くと、山城国西岡に所領 3万5千石を与えられたのでした。その時 から「織部」と呼ばれるようになります。 「織部」とは、正しくは「織部正(従五位下)」という朝廷の役職名のこと。今で いえば、〜庁の長官という立場でしょうか。この役職名から「古田織部」と通称 されるようになったのです。 武将でありながら、利休の弟子となった「織部」は、その茶の才能をめきめきと 伸ばし、利休を深く尊敬、人間的にも利休と温かい交流を続けていきます。秀吉 の催した大茶会に共に出席し、またそれぞれの戦地に赴く・・・そんな関係を続 けていたことが、利休の残した書簡から明らかになっています。その中には、離 れた戦地では、詩を贈り合い、芸術論を語り合い、また、秀吉の小田原攻めに従 軍し、勝利を収めた後、共に熱海で温泉に入ったことなどが記されています。 しかし、これまでに慕っていた利休は、秀吉から疎まれ、やがて堺への蟄居(ち っきょ: 江戸時代、武士に科した刑罰のひとつ。自宅や一定の場所に閉じ込めて 謹慎させたもの)と 切腹を命じられたのです。秀吉の茶頭であった利休、政治・ 文化の中枢にいた人々との交流も多かったのに、罪人扱いされた途端、近づく者 もいなくなる中、「織部」と細川忠興の二人の大名は、堺に下る利休を見送ったの でした。 秀吉からどんな罰を受けるかわからないのに・・・ それでも「織部」は、政治と茶は別である・・・そして一度結んだ人と人との絆 は生涯大切にする・・・という信念を貫いたのです。その信念が後にどんなこと になろうとも。 利休亡き後、「織部」は秀吉より茶頭に任命されます。茶人として最高の地位につ いた「織部」。身分の上下にこだわらず、開放的で合理的な考えを持ち、常に「自 然あるがままの美」を追求し続ける姿勢。この頃、「織部好み」といわれる焼き物 が大量に生産されるようになったのでした。 西暦 1597年、秀吉が没すると、家督を長男に譲り、隠居。茶の湯三昧の生活と、 幸せなひとときを送ります。 しかし、西暦 1600年、関ヶ原の戦いの際、徳川家康の申し出により再び政治の世 界に登場することになったのでした。人脈の広さと交渉力によって戦いを勝利に 導いた「織部」。以来、家康に仕え、西暦 1610年には、将軍徳川秀忠の茶道指南 役となります。 こうして 4人目の天下人に仕えることになった「織部」。臨まれて表舞台にたった 「織部」でしたが、家督を譲りながらも未だに実権を握っている家康にとっては、 徐々に疎ましい存在となっていったのです。 疎ましい存在とは、「織部」の人脈と影響力の大きさ。家康は、キリシタンの台頭 と豊臣家の再興を恐れ、徳川幕府安泰のために不安分子を排除したかったのです。 「織部」は、キリシタン大名・高山右近とも親交があり、また世話になった豊臣 家を潰すことは反対だったのです。「織部」の信念が、家康の不安を掻き立て、疎 ましさを倍増。西暦 1614年方広寺の鐘銘事件の流れをきっかけに西暦1615年大 坂夏の陣で豊臣家を滅亡させると、「織部」を反逆罪で捕らえ、切腹を命じたので す。 「織部」は一言の弁明もせず、この命に従いました。追って一族男子はすべて切 腹。古田家の財産・領地も没収され、お家断絶。「織部」、 72歳。最期まで信念を 貫いた人生でした。 「古田織部」の人生、時代の流れとはいえ天下人に屈することなく、信念を貫い た姿勢はすばらしいですね。「一度結んだ人と人との絆は生涯大切にする」、すば らしい言葉です。人との繋がりを感謝できる人間でいつまでもありたい・・・そ う思います。 ◇◆◇ [古田織部]といえば何を思い出しますか ◇◆◇ 「古田織部」といえば、やはり「織部焼」でしょう。 初めて、これが「織部焼」と知ったのは、お茶を習い始めてからのこと。これが 「織部焼」ですよ・・・とお稽古で使ったお菓子器。何ともいえない銅緑釉の美 しさ。線で文様を詫びた感じでステキ!一目見たときから大好きになった焼き物 です。 さて、今「織部焼」と呼んでいる焼き物は、「古田織部」が作らせたものではなく、 「織部好み」に作らせた作品をいいます。一口に「織部焼」と言っても様々な種 類があります。 種類については、下記を参照してください! 織部焼の種類 → http://www.kimono-maruya.com/mv/?95 「織部」は、利休とは異なり、自由で明るく、のびやかな茶の湯の世界を展開し た人。茶器に限らず、茶室や庭の灯籠、花器や食器など、様々な物まで指導して 作らせ、斬新なアイデアをいっぱい用いた人でした。 その中でも有名なのが「沓(くつ)茶碗」。私も初めて見たときにはびっくり・・・ だって沓ですよ〜いったいどうやって飲むの〜と思いましたもの。 増して、その当時は、歪んだ茶碗など考えられなかった時代です。きっと昔の人 も驚いたことでしょうね。 他にも「織部」は、わざと茶碗を割って継ぎ目を入れたり、幾何学模様を入れた り・・・と驚きを幾つも繰り広げました。「この次はどんな趣向があるのかしら?」 と考えるだけでも楽しくなりますね。 「織部」が求めた茶の世界、それは、「自然から生まれたもの」、そして「茶を楽 しむ心から生まれたもの」なのです。楽しいことは、自然と体が動くもの・・・ 昔から何も変わらない人間の姿なのかもしれません。 自然と共に・・・そういう人生がいいですね。
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