日本古来の行事や文化、伝統、風物など 日常の中にそこはかとなく感じる「和の心」を |
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---------------------------------------------------------------------- ◇◆◇[大島紬No.2]◇◆◇ いつまでも、作り続けてほしい「大島紬」 そして、もっと身近に感じたい、そんな「大島紬」がいいですね。 ---------------------------------------------------------------------- 紬であって、紬でない「大島紬」ってどういうこと? 今回は、前回に引き続き、「大島紬」をお届けします。 前回は、大島紬の成り立ちから江戸時代までご紹介いたしました。 前回のお話 → http://www.kimono-maruya.com/sample.htm 今回は、明治時代からのお話です。 厳しい時代を過ごしてきた江戸時代の奄美大島。 その苦しみから解放されたのは、明治時代にはいった西暦 1873年(明治6年)の こと。ようやく、薩摩藩の支配から解放されたのです。 そして、ここから本格的な「大島紬」の生産が始まりました。 西暦 1877年(明治10年)、「西南の役」が終わりを告げると、「大島紬」は、鹿児 島県をはじめとして大阪などの市場に出るようになったのです。 西南の役 → http://www.kimono-maruya.com/mv/?24 初めての島民による商品取引。どんなに嬉しかったことでしょう。 自分たちが守り続けてきた「大島紬」を自分たちの力で、市場に出す。 限られた環境から生まれた「大島紬」は、特に泥初めの渋い絣紋様が人気を呼ん だのでした。 明治 13年、これまで、色々な植物染料を使って染められていた「大島紬」は、「車 輪梅」と「泥土」だけを使って染めることを業者間で統一。 ここに、「大島紬」の定義が確立されたのでした。 さて、ここで、ちょっと「泥染」について補足です。 前回のお話では、「車輪梅」などの草木によって染められた「大島紬」をご紹介し ました。ここから、なぜ、「泥染」に発展していったか・・・不思議ですよね。 誰だって、泥に絹物を付けたりしませんもの。 それは、ある偶然からなのです。 薩摩藩に統治され、厳しい管理のもと生活していた奄美の人々。 自分たちが織った「大島紬」を着ることもできなかったときのこと。 ある農家の主婦が、そっと着物を泥田に入れて隠したのです。後で洗って着たい と思ったのでしょうか・・・ 泥田から着物を取り出してみると、「車輪梅」で染められた茶褐色の着物が黒く変 わっていたのです。泥染紬はこうして誕生したのでした。 「泥染」が黒く染まるのは、「車輪梅」の煮汁に含まれるタンニン酸と泥の中に含 まれる鉄分が反応するから。鉄分の多く含まれた泥田でなければ「泥染」はでき ないのです。 染めについては、後ほどにして・・・明治時代に戻りましょう。 人気を得た「大島紬」は生産に追われます。 明治 23年には、木綿針を使って、縦絣を合わせる技法が生まれ、そして明治30 年には、長年、女性の重労働となっていた「イザリ機」に変わって「高機」が生 まれ、生産に活気がつき、大島紬は益々人気が高まりました。 高機画像でチェック → http://www.kimono-maruya.com/mv/?25 イザリ機が重労働であった理由 → http://www.kimono-maruya.com/mv/?26 また、この頃、真綿の手紡ぎから、量産できる玉糸が用いられるようになり、生 産力は更にアップ。玉糸とは、 偶然 2匹の蚕が一つの繭を作り、その繭から2本 の糸を一緒に引き出したもの。 明治 40年には、今まで絣柄を作るために糸を手括りしていたのですが、永江伊栄 温氏によって、「絣織締機」が開発され、細かな図案まで織り上げることができる ようになったのでした。 こうして、細かい模様の「大島紬」が生まれ、大正時代から昭和時代にかけ、絣 柄を競って、大胆な柄が生まれていったのでした。 しかし、第二次世界大戦後、昭和 21年〜28年まで、アメリカの占領下に置かれ、 紬の施設や販路を失った作り手は、鹿児島に渡り、「大島紬」の生産を始めたので す。奄美大島では、なんとか、「大島紬」を作り続けたい、という思いから米国政 府を動かし、生産し続けたのでした。 現在、「大島紬」には、2つのマークがあります。 鹿児島産の「旗印」、奄美大島産の「地球印」。 鹿児島産は、鹿児島に渡った人々が、奄美大島を思い、奄美大島で使われていた 国旗を記しとしたとのこと。 ひとつの印にも思いが込められていたのですね。 長い歴史の中、幾度となく、支配され、管理されてきた「大島紬」。 今、こうして美しい織物を見られるのも、苦しい中、作り続けてくれた奄美の人々 のおかげです。 平和な今、大切に守られたきた「大島紬」を絶やすことなく、私たちが守り続け ていけたら・・・と思っています。 いつまでも、誇れる織物で、美しい織物で、あってほしいと、願いを込めて。
◇◆◇ [大島紬]といえば何を思い出しますか ◇◆◇ 「大島紬」といえば、私のお店と直接、取引のある ○○さんを忘れてはいけま せんね。今、私のお店では、直接、生産地と取引をしています。 年齢は、同じくらいの若旦那様。私は、若旦那の着物に対する「思い」に惚れて 取引をしています。着物は着なくても一生過ごせるもの。だから、好きでなけれ ば、なかなか続けられないものです。(どの職業も同じでしょうが・・・) 「大島紬」について話だすと、 2 時間はしゃべっています。 今の「大島紬」について語ってくれるのです。 みなさん、「大島紬は高級品」って思っていませんか? 思っていますよね〜。雑誌・着物の展示会・・・目にするのは高級品ばかり。 でも、それは、絣柄の「大島紬」のこと。「縞大島紬」と呼ばれる物は、そんなこ とないのです。その工夫をしている一人が、若旦那。 もっと、若い人にも気軽に「大島紬」を着てほしい!という願いからなのです。 現在、大島紬の種類は、 5 種類。 「泥大島」伝統的な車輪梅泥染法で染色した糸を使って織ります。 「泥藍大島」植物藍で先染した糸を絣むしろにして車輪梅泥染で染色したもの。 「草木泥藍大島」車輪梅以外の草木などの天然染料で染めたもの。 「色大島」化学染料を使って染色したもの。 「白大島」地色を染めずに白のまま絣模様に色を入れたもの。 着物の値段は、どれだけ手間がかかったか、ということによります。 その手間とは、一番が絣柄を合わせること。 ちょっと織っては絣を合わせ、ちょっと織っては合わせ・・・気の遠くなる作業 を繰り返します。 この繰り返しが一番手間のかかる「縦横絣大島」です。 糸の縦にも、横にも絣が入っているものを合わせるのですから、もちろん時間も かかります。(でもかかった時間は、美しい絣柄となるわけですが・・) 柄が細かければ、細かいほど、時間もかかるというわけ。 すごい技術です。 これが、絣柄を緯糸(よこいと)だけ、経糸(たていと)だけ、そして横絣の柄 を合わせずに織ったジャジャ織りとなると、その分手間が減るというわけです。 だから、「大島紬」に出会ったら、聞いて見てくださいね。 「どういうふうにして作られましたか?」って。 親切な方は、きっと答えてくれますよ! 最後に、「泥染大島」は、車輪梅に 50〜60回、泥田に5〜6回繰り返し染められま すので、どうしても泥の粒子が残っています。最初にお召しになる場合には、で きるだけ、色の濃い帯をお薦めします。帯に付いてしまったら、呉服屋さんで落 としてもらって下さいね。 紬であって紬でない「大島紬」は、紡ぎ糸ではなく玉糸を使っているからでした。 また、来週をお楽しみに!
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