着物専門店「丸や呉服店」着物専門店「丸や呉服店」

12月1日(月)〜6日(土) 栗山工房・紬展

 

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◇◆◇[大島紬No.2]◇◆◇

いつまでも、作り続けてほしい「大島紬」

 そして、もっと身近に感じたい、そんな「大島紬」がいいですね。

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紬であって、紬でない「大島紬」ってどういうこと?

今回は、前回に引き続き、「大島紬」をお届けします。

 前回は、大島紬の成り立ちから江戸時代までご紹介いたしました。

  前回のお話 →  http://www.kimono-maruya.com/sample.htm

今回は、明治時代からのお話です。

厳しい時代を過ごしてきた江戸時代の奄美大島。

その苦しみから解放されたのは、明治時代にはいった西暦 1873年(明治6年)の

こと。ようやく、薩摩藩の支配から解放されたのです。

そして、ここから本格的な「大島紬」の生産が始まりました。

西暦 1877年(明治10年)、「西南の役」が終わりを告げると、「大島紬」は、鹿児

島県をはじめとして大阪などの市場に出るようになったのです。

西南の役 →  http://www.kimono-maruya.com/mv/?24

初めての島民による商品取引。どんなに嬉しかったことでしょう。

自分たちが守り続けてきた「大島紬」を自分たちの力で、市場に出す。

限られた環境から生まれた「大島紬」は、特に泥初めの渋い絣紋様が人気を呼ん

だのでした。

明治 13年、これまで、色々な植物染料を使って染められていた「大島紬」は、「車

輪梅」と「泥土」だけを使って染めることを業者間で統一。

ここに、「大島紬」の定義が確立されたのでした。

さて、ここで、ちょっと「泥染」について補足です。

前回のお話では、「車輪梅」などの草木によって染められた「大島紬」をご紹介し

ました。ここから、なぜ、「泥染」に発展していったか・・・不思議ですよね。

誰だって、泥に絹物を付けたりしませんもの。

それは、ある偶然からなのです。

薩摩藩に統治され、厳しい管理のもと生活していた奄美の人々。

自分たちが織った「大島紬」を着ることもできなかったときのこと。

ある農家の主婦が、そっと着物を泥田に入れて隠したのです。後で洗って着たい

と思ったのでしょうか・・・

泥田から着物を取り出してみると、「車輪梅」で染められた茶褐色の着物が黒く変

わっていたのです。泥染紬はこうして誕生したのでした。

「泥染」が黒く染まるのは、「車輪梅」の煮汁に含まれるタンニン酸と泥の中に含

まれる鉄分が反応するから。鉄分の多く含まれた泥田でなければ「泥染」はでき

ないのです。

染めについては、後ほどにして・・・明治時代に戻りましょう。

人気を得た「大島紬」は生産に追われます。

明治 23年には、木綿針を使って、縦絣を合わせる技法が生まれ、そして明治30

年には、長年、女性の重労働となっていた「イザリ機」に変わって「高機」が生

まれ、生産に活気がつき、大島紬は益々人気が高まりました。

 高機画像でチェック  →  http://www.kimono-maruya.com/mv/?25

 イザリ機が重労働であった理由  →  http://www.kimono-maruya.com/mv/?26

また、この頃、真綿の手紡ぎから、量産できる玉糸が用いられるようになり、生

産力は更にアップ。玉糸とは、 偶然 2匹の蚕が一つの繭を作り、その繭から2本

の糸を一緒に引き出したもの。

明治 40年には、今まで絣柄を作るために糸を手括りしていたのですが、永江伊栄

温氏によって、「絣織締機」が開発され、細かな図案まで織り上げることができる

ようになったのでした。

こうして、細かい模様の「大島紬」が生まれ、大正時代から昭和時代にかけ、絣

柄を競って、大胆な柄が生まれていったのでした。

しかし、第二次世界大戦後、昭和 21年〜28年まで、アメリカの占領下に置かれ、

紬の施設や販路を失った作り手は、鹿児島に渡り、「大島紬」の生産を始めたので

す。奄美大島では、なんとか、「大島紬」を作り続けたい、という思いから米国政

府を動かし、生産し続けたのでした。

現在、「大島紬」には、2つのマークがあります。

鹿児島産の「旗印」、奄美大島産の「地球印」。

鹿児島産は、鹿児島に渡った人々が、奄美大島を思い、奄美大島で使われていた

国旗を記しとしたとのこと。

ひとつの印にも思いが込められていたのですね。

長い歴史の中、幾度となく、支配され、管理されてきた「大島紬」。

今、こうして美しい織物を見られるのも、苦しい中、作り続けてくれた奄美の人々

のおかげです。

平和な今、大切に守られたきた「大島紬」を絶やすことなく、私たちが守り続け

ていけたら・・・と思っています。

いつまでも、誇れる織物で、美しい織物で、あってほしいと、願いを込めて。

 

◇◆◇ [大島紬]といえば何を思い出しますか ◇◆◇

 「大島紬」といえば、私のお店と直接、取引のある ○○さんを忘れてはいけま

せんね。今、私のお店では、直接、生産地と取引をしています。

年齢は、同じくらいの若旦那様。私は、若旦那の着物に対する「思い」に惚れて

取引をしています。着物は着なくても一生過ごせるもの。だから、好きでなけれ

ば、なかなか続けられないものです。(どの職業も同じでしょうが・・・)

「大島紬」について話だすと、 2 時間はしゃべっています。

今の「大島紬」について語ってくれるのです。

みなさん、「大島紬は高級品」って思っていませんか?

思っていますよね〜。雑誌・着物の展示会・・・目にするのは高級品ばかり。

でも、それは、絣柄の「大島紬」のこと。「縞大島紬」と呼ばれる物は、そんなこ

とないのです。その工夫をしている一人が、若旦那。

もっと、若い人にも気軽に「大島紬」を着てほしい!という願いからなのです。

現在、大島紬の種類は、 5 種類。

「泥大島」伝統的な車輪梅泥染法で染色した糸を使って織ります。

「泥藍大島」植物藍で先染した糸を絣むしろにして車輪梅泥染で染色したもの。

「草木泥藍大島」車輪梅以外の草木などの天然染料で染めたもの。

「色大島」化学染料を使って染色したもの。

「白大島」地色を染めずに白のまま絣模様に色を入れたもの。

着物の値段は、どれだけ手間がかかったか、ということによります。

その手間とは、一番が絣柄を合わせること。

ちょっと織っては絣を合わせ、ちょっと織っては合わせ・・・気の遠くなる作業

を繰り返します。

この繰り返しが一番手間のかかる「縦横絣大島」です。

糸の縦にも、横にも絣が入っているものを合わせるのですから、もちろん時間も

かかります。(でもかかった時間は、美しい絣柄となるわけですが・・)

柄が細かければ、細かいほど、時間もかかるというわけ。

すごい技術です。

これが、絣柄を緯糸(よこいと)だけ、経糸(たていと)だけ、そして横絣の柄

を合わせずに織ったジャジャ織りとなると、その分手間が減るというわけです。

だから、「大島紬」に出会ったら、聞いて見てくださいね。

「どういうふうにして作られましたか?」って。

親切な方は、きっと答えてくれますよ!

最後に、「泥染大島」は、車輪梅に 50〜60回、泥田に5〜6回繰り返し染められま

すので、どうしても泥の粒子が残っています。最初にお召しになる場合には、で

きるだけ、色の濃い帯をお薦めします。帯に付いてしまったら、呉服屋さんで落

としてもらって下さいね。

紬であって紬でない「大島紬」は、紡ぎ糸ではなく玉糸を使っているからでした。

また、来週をお楽しみに!

 

 

 

 

   

   

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