着物専門店「丸や呉服店」着物専門店「丸や呉服店」

12月1日(月)〜6日(土) 栗山工房・紬展

 

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◇◆◇[大島紬No.1]◇◆◇

着物をあまり知らない人でも、一度は聞いたことがある「大島紬」

 昔も今も、着物好きには、根強い人気があるようです

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色々な種類の着物があるけれども、「大島紬」は特別なもの?

今回は、絹の音も楽しんで、「大島紬」をお届けします。

 みなさんは、「大島紬」を見たことがありますか?

最近、男の方が祖父の着物で・・・とか、父の着物が・・・とお持ちになると、

ほとんどのかたが「大島紬のアンサンブル」を持ってみえます。

ある時代を飾った「大島紬」。まずは歴史からご紹介しましょう。

「大島紬」は、現在、奄美大島と鹿児島で織られています。産地は、奄美大島と

鹿児島。暖かい所ですね。

奄美大島に「紬」なるものが登場したのは、奈良時代(西暦 710年〜)、平城京の

時代です。そのころ、手紡ぎ糸で「褐色紬」が作られていたのです。

この事実は、奈良の東大寺や正倉院の献物帳に「南島から褐色紬が献上された」

と記録として残っています。

この褐色紬は、天智天皇の頃(西暦 668年ころ)に本土で行われていた古代染色

(梅染桃染)の技法と同じで、奄美に自生する草木によって染められたと考えら

れています。

草木の中には、今でも使われているテーチ木があったようです。

テーチ木とは、奄美の方言。別名「車輪梅(しゃりんばい)」といいます。

車輪梅 →  http://www.kimono-maruya.com/mv/?20

9世紀頃には、奄美は遣唐使の通り道だったことから、その中継地点として、中国

と、また南方との交流があったようです。

時代は、定かではないのですが、奄美大島は、暖かい気候の中、豊かな自然に恵

まれ、人々の生活着は、芭蕉糸によって作られていたようです。

養蚕によって織られた物は献上し、日常着は芭蕉布だったのです。

その後、琉球王国が官吏を派遣。島を統治下に置いたのです。

琉球王国は、西暦 1429年に作られた国家ですから、それ以降のことです。

さて、時代は、江戸時代にと入っていきます。

江戸時代初期、大島紬は、真綿から紡いだ手紡ぎ糸を植物染料で染め、イザリ機

(はた)で織られていました。

今の本場結城紬のような織り方です。

柄は、無地か縞柄。まだ、絣の柄は作られていませんでした。

真綿  →  http://www.kimono-maruya.com/mv/?21

イザリ機  →  http://www.kimono-maruya.com/mv/?22

西暦 1609年なると、薩摩藩が琉球王国と奄美大島を支配するようになり、豊かな

自然と豊富な物産類は、薩摩藩直轄で管理されたのです。

その中に、「大島紬」もありました。奄美大島で作られた紬。高品質であったため、

琉球紬とともに琉球国高として江戸幕府に知られることになるのです。

薩摩藩によって管理された奄美大島。厳しい税は、これ以後、島民を苦しめたの

でした。そして、悲しいことに「奄美大島で作られた紬」は、「琉球紬」のひとつ

として扱われたため、記録には残っていないのです。

西暦 1720年、奄美大島の人々が苦しむことが起こります。

「絹布着用禁止令」(大島政典録にて記録されている)

奄美の四島(奄美大島・界島・徳之島・沖永良部島)に対し、「与人・横目・目指・

筆子・掟以外の島の役人以下、一般島民の紬着用を禁止した」と。

この当時、島民は、絹の大島紬を着ていたことがわかります。

この禁止令はとても厳しく、島民は衣食住のすべてが制限され、日常着は「から

苧麻(からむし)」「芭蕉」「木綿」のみの使用。染料も「椎」「ヤマモモ」などの

草木の染汁や泥に限られたのです。

それでも、島民は「大島紬」を織り続けたのです。

絣織物が織られたのも、江戸時代のことです。

文化花開いた元禄時代には、井原西鶴が「好色盛衰記」にてこう記しています。

当時、遊客の衣服の出で立ちを

「黒羽二重に三寸紋、紬の大島の長羽織・・・」

殿方の間では、泥染めされた大島紬が流行だったようです。

また、江戸末期(西暦 1850年ころ)の文献「南島雑話(薩摩藩士名越左源太作)」

の中で、「紬を上とし、木綿、苧麻、芭蕉布など島婦これを織る」と記し、図入り

で絣・縞・格子などの紋様がイザリ機で織られ、染法についても「田または溝河

の腐りたるにつけ、何遍となく染めるときは、ネズミ色に付くの腐りたるをニチ

ャと云う」と記しています。

江戸時代には、現在の「大島紬」の基礎ができあがっていることがわかりますね。

駆け足で見てきました「大島紬」、いかがでしたか?

厳しい統治下に置かれた江戸時代、島民の思いを考えると胸が痛くなりますね。

次回、そんな厳しい時代を乗り越え、奄美大島は明治時代に入っていきます。

明治時代という新しい時代に「大島紬」はどう変化していったのでしょうか?

次回をお楽しみに!

 

◇◆◇ [大島紬]といえば何を思い出しますか ◇◆◇

 「大島紬」といえば、どうしても忘れられない着物があります。

それは、どうしてもほしかった「白大島」です。

もう、何回かご紹介していますが、私の家は祖父から始めた呉服屋です。

私が小さい頃は、呉服業界が全盛期の頃。

厳しい祖父も元気でしたから、家は商売が中心。

子供たちは、一切、お店出入り禁止。

お店に行くときは、お正月と通信簿を見せに行くとき・・・と年に数回。

それも、裏口から入って、店には入れません。

そんな厳しい祖父だったので、小さい頃から、子供たちも決められた着物しか着

ることがなく、自分の好み、なんていえなかったのです。

でも、祖父が亡くなり、父の代になると、子供たちにも着物を選ぶことが許され、

少しずつ、着物を見る機会も増えてきました。

そんな中、私はお店にある「白大島」を見つけたのです。

柄は、桃色系の蝶の柄。

大島紬の特徴である光沢に、きれいな桃色で織り出された蝶。

織り出された蝶は、本当に羽ばたいているようにきれいなのです。

私は、その「白大島」に一目惚れしてしまいました。

それからというもの、お店に行くたびに、父に「ね〜あの白い大島紬、売れちゃ

った?まだあったら見せて!」と言っては、「白大島」を見せてもらっていたので

す。

こんなステキな「白大島」、どうか売れませんように・・・なんてお願いしながら。

今、考えてみれば、大胆な考えですね。

呉服屋なのに、「売れませんように〜」だなんて(笑)

でも、当時は真剣だったのですよ!

結果、とうとう父は根負けして、「白大島」を仕立ててくれました。

私が親だったら、絶対に作らなかったでしょうが・・・。

だから、今でも、その「白大島」を見る度に、思い出すのです。

父のことを・・・父はその時、どんな思いをしたのかしら・・・

そして、「申し訳ないことしたな〜」って。

いつまでも、大事に着ていたい私の思い出の「白大島」です。

 

 

 

   

   

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