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●仙台平男子のはかま地の総称のように、このはかま地は有名です。絹を素材とした打ち込みと柔軟性は、はかま地としてほかに類がなく、すわって立ち上がったとき、さらりとしわにならず、品位を保っているのが特徴です。仙台平は伊達正宗公の奨励によって始められたとも、正徳元年(一七一一)、五代藩主吉村公が京都から小松弥右衛門を招き、その創織によるとも伝えられています。糸の精練技術と、植物染料による糸染め、手機で投杼を使って二度打ちして織り上げられた打ち込みの強さなどに、ほかに類のない特徴があります。縞地の場合、縦糸は縞の部分に太めの練り糸を用い、その他の縦横糸は生糸のまま染色して引きそろえます。横糸を湿し、またはつち打ちして織り上げたものを清好平といい、縦横糸ともにねり上げたのち染色して織ったものを本練平といいます。いずれも男子の正式礼装用はかま地として用いられています。昭和三十一年国の重要無形文化財技術指定を受けた甲田栄佑氏が四十年に亡くなられた後は、甲田綏郎氏が後継者としてその伝統を継承しています。
●白石紙布紙子の歴史は非常に古く、腰の強い上質の紙を産したわが国独特のものです。紙は織物に比べて軽く風を通さぬという利点を持っていたため、防寒着や寝具として用いられていました。幾枚かの紙をはり合わせ、これをもんで柔らかくし、柿渋を塗って仕上げたもので、戦国時代の胴服や陣羽織にも利用されましたが、この紙子を特に多く使用したのは僧侶たちで、その慣いが現在も奈良東大寺の二月堂の修二会(お水取り)に参籠する僧たちに受け継がれています。紙子の産地としては昔は色々なところがありましたが、静岡県の安部川、和歌山県の革丼と並んで宮城県の白石が三大産地でした。明治以降一時どの産地からも製品は姿を消しましたが、現在白石では復興され、文様は昔用いた型抜にタンポを用いて拓本式に墨で摺り表わし渋い墨味を出すようにしているのが、今日の白石紙衣の特徴です。昔は木版刷りでした。紙衣は古く平安朝時代から仏僧が着用したと先に述べましたが、松島瑞巌寺中興法身禅師も紙衣を着て岩屋で修業し、伊達正宗公は太閤秀吉から紙衣を拝領した記録があり、奥の細道を行脚した芭蕉も旅荷の中にこの紙衣を持って持参しています。白石の紙衣は、よく揉んで丁寧に作るので、柔らかでつやが良く仙台紙衣として江戸や京都にまで売り捌かれ、小紋紙衣、羽二重紙衣など美しい模様や色染めの高級紙衣も作られました。現在は帯や胴服や、名刺入れ、札入れ、ハンドバック等が作られ、地方工芸品として珍重されています。
●栗駒正藍染(正藍冷染) 岩手県の県境に近い宮城県栗駒から、さらに奥へ入ったところに正藍染の千葉あやのさんの工房があります。
この地方の正藍染は、昔はかなり広く行われていたものらしいのですが、昭和三十年四月に重要無形文化財に指定された頃には、この技術を継承しているものは千葉さん一人でした。藍草を種えて染料である玉藍を作り
一方に麻を植えて糸をとり、これを織って染色するという徹底した一貫作業が行われています。
藍をちぢみ藍を用います。米の田作りと同じく、四月中旬に種をまき五月末に移植、七月上旬に第一回の刈り
取りをし八月に第二回の刈取りをします。刈り取ったらすぐに葉を手でこぎとり、天気の良い日に乾してニ回ぐらいもみあげ、俵につめて天井につるしておく、一月になって藍葉をだし水で洗う。土間にもみがらを二寸位敷き、その上にわらを並べ、さらにむしろをかけ洗った藍葉を積み上げます。その上からわらを並べ三〇〜七〇キログラムの重さをかけます。三、四日すると発熱、一週間か半月ごとに手がえをして四月までそっとしておきます。四月、藍葉を床から出して臼に入れ、ついて一二センチメートルぐらいの藍玉にします。よく乾し細かくして俵につめます。夏に入ったら藍玉を一汁分木桶に入れ、その上に木灰五升と体温に近い湯二斗を入れます。一週間もすると発酵した藍が建ってきます。このように通常用いられる藍建てとは異なった原始的な方法がこの藍染の特徴となっており、人口加温は最初に入れる温湯のみです。
●八橋織
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